僕の怒りについて彼女は考察する

「あなたには、怒りというものがないのかしら」
夕焼けが教室内を赤く照らし出した放課後、いつものように、保健室から教室に戻ると、ひとりの少女がいた。少し暗い紫色の髪の毛が風に揺れ、黒いセーラ服を着た彼女を妖しく写していた。彼女は窓際に立ち、帰りの支度を整えている僕に、失礼な質問をぶつけてくる。一方で僕は、机の中にある教科書やノートを取り出していた。
「そりゃあ、あるけど。というか、宮原さんは何してんのさ」
宮原凜音、彼女は学校に名を轟かせる、残念系美少女だ。容姿端麗、成績優秀、運動完璧、絵に書いたような完璧さだった。だが、性格はいささか特殊だった。彼女が入学時、ホームルームで言った言葉は耳を疑うものだった。人には興味がないけれど、人の起こす行動には興味があるわ、みなさん、せいぜい私を楽しませてちょうだい、まるで女王様のようだった。そんな宮原さんと僕は、特に接点もないはずだった。ある一点を除いて、1年の時から現在までクラスが同じなのである。最もこれは、クラスの中にも同じことを言えるが。ふと、今までのことを思い出していると、宮原さんは桜色の唇を動かした。
「だってあなた、佐伯くんたちにいじめられているでしょ」
確信を付く一言だった。そう僕は現在、佐伯秀介をはじめとする、数人のグループからいじめを受けていた。周りには隠しているつもりだったのだが、人間観察を趣味とする彼女にバレてしまったらしい。思わず思考が停止する。手に持っていた教科書が床に落ち、ドサッという音で思考がもどってくる。慌てて拾おうとすると、宮原さんの手が、教科書を拾おうとした僕の手に触れた。まっさらなキャンパスのような白い彼女の手は、想像していたよりも冷たかった。顔を上げると宮原さんがじっとこちらを見ていた。人形のよう、ありふれたような表現が、理解できたような気がした。
「教えてくれないかしら、なぜあなたは先生に報告することもなく、現状を受け入れているの」
その疑問はもっともだろう。確かに僕は先生に報告などしていない。それどころか、家族や友人などにも話していない。クラス内では変に目立たないようにしてきたつもりだし、話しかけてきた相手には笑顔で答えている。だが、ばれた。僕は、観念したようにため息をつき、立ち上がる。
「単純な話しだよ、無駄だからさ」
僕は、自嘲気味に笑い、少し彼女に昔話をした。自分が小さい頃からいじめを受けていたこと。父から虐待を受けていたこと。母が父と別れ別の男と再婚したとき、自分がじゃまになり今度は母から虐待を受けたこと。その度に何度も先生に訴えたが、真面目に受けてもらえず、中途半端な対応でいじめがさらにひどくなったこと。
「だから僕は思ったんだ、何かをすることでさらに辛くなるんだったら、何もせずにじっと待って、相手が飽きるのを待つほうがいいって」
ふ~んと、宮原さんは感心したような、呆れたような、曖昧な返事をした。そして彼女は僕の手を取り、なでるように触れた。
「ごめんなさい、あなたのことを少し誤解していたようだわ」
最初は何を言っているのか、わからなかった。彼女が触れた手に意識が向いていたからだろうか、それとも心のうちでは、理解したくない、そう思っているのだろうか。思案を巡らせていると、宮原さんはふっと笑い、
「だってあなた、こんなに強く拳を握っているもの、怒りが無いというのは間違っていたわね」
ゆっくりと、僕は自分の手のひらを見る、脱力し開かれているはずの僕の手のひらは、グッっと握られていた。手のひらに爪が食い込み、今にも血が出そうなほど強く握られていた。
「あなたの経験はいい材料になりそうだわ」
そう言うと宮原さんは、一本ずつ僕の手のひらを開いていく、繊細な指が僕の指を包むと、さっき感じた冷たさはなくなり、暖かな熱が僕の指から全身の奥へと広がっていく。やめろ、頭の中で警告が聞こえた気がした。また一本、張り付いた指が解かれていく。やめろ、また頭の方で警告が聞こえた気がする。
「ありがとう」
その一言で警告の意味がわかった。気が付いた時には彼女の肩を掴み、壁に押し付けていた。自分でも何をしているのかわからなかった。だが思考とは別にどこかで突き動かされていた。思考はまとまっていないはずなのに言葉は次々出てきていた。
「わかったようなことを言うな!お前に何がわかる!ただ周りを傍観して、それで全部知ったような気になって!お前は何なんだよ!」
気づけば叫んでいた。まるで今まで溜め込んでいたものを吐き出すように、彼女に感情をぶつけていた。徐々に思考が追いついていく、さっきから出ていた警告、それは、彼女に踏み入られるのを心が拒絶していたのだろう。そして少しずつ状況を理解し始める。彼女は怯えたような表情をしていた。今にも泣きそうな表情で、こちらを見つめていた。夕焼けが後ろにあった時は気が付かなかったが、彼女は紅い瞳をしていた。その瞳は少し潤み、くすんだような鈍い輝きをしていた。彼女の肩を掴んでいた腕から、彼女が震えていたのがわかった。
「分からないわよ」
泣きそうな声だった。彼女の肩から手を離すと、胸のあたりに少し重みを感じる。彼女が僕に抱きついたらしい。どういうわけかはわからないが、この感覚は悪くはなかった。何故だか、どこかで感じたことのある、懐かしいものだった。夕焼けも少しずつ傾き、暗くなってきた教室の中では、宮原さんの、こらえたような嗚咽が静かに響いていた。やがてそれも聞こえなくなると、胸の中でもぞもぞと顔を上げた。こちらをジッと見つめる紅い瞳は、決意に燃えたような、強い輝きを灯していた。そんな彼女に見とれていると、桜色の唇が震えた。
「私は、怒ることがないあなたが、何をするのか興味がわいたの、それであなたを観察していた、でも、気が付くと行動だけじゃない、あなた自身に興味がわいてきたの、勝手な話だけど、有坂くんには私を変えた責任、とってもらうわ」
非常に無茶苦茶な提案だ、でも不思議と悪い気はしなかった。僕はそっと彼女を抱きしめた。