紅茶は過去の香り

パチパチと火の粉の跳ねる音がする。少年は重い体を引き起こし、足を引きずりながら歩き出す。部屋の扉を開けると熱風が体を襲う。火事が起きていた。
次第に部屋にも火の手が回り始める。急いで部屋を出ると、洋館の中は既に火で覆われていた。目的の部屋まで急ぎ歩き始める。
 ようやく目的の部屋にたどり着くと、部屋の中は家材が燃え、少女の眠るベッドを侵しつつあった。衝動に突き動かされるように部屋へ入る。焼け落ちた家材を避け少女のもとへたどり着く。少女を毛布で包み抱き抱える。腕の中で少女は震えていた。
「あなただけでも、逃げて」
 おそらく声を出していたからでない。恐怖で震えているのだろう。
「そうはいきません、お嬢様をお守りするのが私の使命ですから」
 少年は微笑みかける。少女の不安を少しでもなくそうと。そして意を決したように窓際へ向かう。窓を開け少女を抱えながら、少年は炎と向かい合うように窓に立つ。そして重心を後ろに移動させていく。
「お嬢様、どうかご無事で」
 体が宙に浮きそのまま落ちていく。

 小鳥のさえずりが耳に入り少女は目を開ける。まだ覚め切らない眼をこすりながら、少女は顔を上げた。少女にとってそこは見慣れた場所だった。白を基調とした鳥かごのような建物。
周りには赤や白だけでなく紫やオレンジのバラが咲き誇っていた。少女がバラを眺めていると、目の前にあるテーブルにティーカップが置かれる。
「お目覚めですか、お嬢様」
「ありがとうクラウス」
少女の横でにこりと笑う少年。名前をクラウス・ペンドラゴンと言い、幼少の頃から少女の専属執事をしている。
今から5年ほど前、少女の住む館は放火された。クラウスは少女を助けるため、少女を抱え館の二階の窓から飛び降りた。少女は無傷で済んだが、クラウスはもう二度と立てない可能性があった。
彼が治ったときに医者は、身体機能に異常はありませんでした。ただ、煙を大量に吸い込んだせいで、後遺症として記憶障害が残ると思われます。と言っていた。
医者が言っていた通り、彼が目覚めた時いくつかの記憶を失っていた。火事が起こったときのこと。それまでに過ごしてきた過去。そして少女と過ごした時間すらも。
記憶だけはない。熱によって焼けた手は、手袋と袖の間から時々見えてしまう。ティーカップを置いたときにも、少しではあるがそれを覗かせていた。
火事の一件以来少女は、クラウスに対して負い目を感じていた。主従関係だから気にしないほうがいい。執事長のアストレアは少女にいつもそう言っていた。
「いつも飲んでいるものに比べて香りが強いわね。この香りは…ダージリンかしら」
「はい、良い茶葉が入りましたので、それに合わせて少し配合をかえてみました。」
クラウスはお世辞か本心かわからない、完璧なポーカーフェイスをしていた。だが少女にはなんとなく理解できていた。さっきの言葉はお世辞だと。
小さな頃から一緒だったからか、直感としてわかってしまう。それが少女には怖かった。時折少年を空虚に感じてしまうからだ。少女は不安を飲み込むように紅茶を啜った。
「ん…美味しいわ。でもこの香りどこかで…まぁいいわ。
クラウス、少し一人になりたい気分なの、夕暮れにまた来てくれないかしら」
「かしこまりました。」
クラウスは腰を折り、深く礼をしてバラの庭園から去っていく。少年の後ろ姿がなくなったのを確認し、ため息をこぼす。そして、庭園の近くの木に隠れているはずの執事長を呼んだ。
「アストレア、そこにいるのでしょう?出てきていいわ」
「おやおや、バレてしまいましたか」
少女の呼びかけに木陰から、初老の男性がニコニコしながら歩いてくる。彼がこの館の執事長アストレア・ペンドラゴン。先ほどの少年の父親である。
「あの時からもう何年経つかしら」
「本日でまる五年、経過いたしまいた」
「そう…もう五年」
少女は紅茶を啜る。あれから何度か季節が巡り今は春になっていた。そして今日で5年の歳月が経過した。
少女はカップを持たない手で拳を握っていた。五年の間積もっていた感情は、アストレアの言葉で口火を切るように、爆発した。
「ごめんなさい。クラウス、私は…あなたに何もできない。慰めの言葉をかけることも、見舞いに行くこともできなかった」
辺りは少女の嘆きが響いていた。自分の無力さを非難し、自らの行いを後悔した。決壊したダムのように溢れる涙を振り払うように、少女は握った拳をテーブルへ叩きつけていた。
「私のせいで!彼の心はあの時から、置き去りになってしまった…」
 強く揺れたテーブルは、少女の白いワンピースを紅茶で彩らせていく。紅茶は少女が背負った罪を吐き出すように、白を侵食し広がっていく。
少女の嘆きは静かになっていく。頬を流れる涙は顎を伝いカップへ落ちていく。俯く少女はひどく小さく見えた。

少女が落ち着いた頃ちょうど夕日が傾き始めていた。既に紅茶は冷め切っており、手の中にあるカップが時間の経過を物語っていた。
「これじゃ、みんなに笑われてしまうわね」
 少女は自嘲気味に笑みをこぼした。そして、冷たくなった紅茶を飲み干す。周りを見るとアストレアは居らず、代わりに少年がこちらに歩いてくる。
「お嬢様、そろそろお時間でございます。一度シャワーを浴びた方がよろしいかと」
 クラウスは少女の座る椅子を引き、館へ戻るように促した。少女は頷き立ち上がると、少年の方へ向き直す。表情は先程よりずっと凛々しく力強いものだった。
「戻る前に少し、いいかしら?」
少年はティーカップを片付けている手をとめ、少女に向かい合う。
「はい、なんなりと」
「あなたは五年前のことを、どの程度まで覚えているのかしら」
少年は目を閉じ、そうですね…、と思案を巡らせ目を開いた。
「ほとんど覚えていませんね。申し訳ありません、お嬢様」
「そう…よね、ごめんなさい、私はあなたの心を記憶とともに、置き去りにするようなことをしてしまった。」
少年は少しきょとんとした顔をし、少し笑みを見せた。
「お嬢様、今日は詩的なことおっしゃいますね。五年前、確かに私は隔離された病室に一人でした。ですがそれで良かったのです。
出来ることなら、お嬢様に情けない姿を見せたくありませんから。目覚めた時に、お嬢様がいらっしゃらなかったのは、肝を冷やしましたが。」
 少女は、胸が締め付けられるような苦しみを覚えていた。この笑みがひどく空虚で、偽物のように感じたからだ。少女は拳を握っていた。このままではいつもと変わらない。
「お嬢様、私…いえ、僕は火事の後目を覚ましてから、心はお嬢様とともにあるつもりです。
お嬢様、置き去りになっているのは、私の心ではなくお嬢様の心ではありませんか?」
 少年の言葉は不思議と少女の心にすっと入っていく。納得できてしまった。確かにあの時の後悔から、立ち直ることができていなかった。あの時部屋から出ることができたなら。ずっとそういうことばかり考えていた。
ふと、紅茶の香りが鼻をくすぐり、鍵をかけた記憶を呼び覚ました。
「お嬢様!?」
体の力が抜け倒れそうになるが、すんでのところで少年に助けられる。記憶の中では、この庭園で少女が少年に紅茶を淹れていた。今日と同じ香りの紅茶を。
支える少年の胴に腕を回し、ギュッと力を込める。
「私の名前を呼んで。お嬢様なんて肩書きはいらない。」
 少年はそれに応じ、少女の耳元でその名を囁いた。