空白の解答欄

そこは、まるで清潔を絵で表したような、真っ白な部屋だった。

部屋の中にはこれまた真っ白な布団が乗ったベッドが四つ。しかし、そのうち使用されているのは一つだけで、他の三つはがら空きだ。
部屋の外からバタバタと数人の慌ただしい足音が響いてくる。足音は部屋の入り口前までやってきて、今度は勢いよく扉を開けた。部屋と同じくらい真っ白な白衣を着た男性と、男性よりも一回り若そうな女性が数人なだれ込み、扉から見て左奥、窓際のベッドを取り囲む。
男性は神妙な顔つきでベッドの中の人物の腕を取ったり、顔に触れたりと何かを確認するように身体を触っている。
しかしそれもつかの間、男性は残念そうにうなだれて、その手を離し、自分の腕時計を確認した。
「……時……分……死亡を確認……」
 沈んだ声で、男性はそう告げる。
「おにいちゃん!!」
その途端、どこに隠れていたのか、幼い少女がベッドの上に眠る人物に縋りつき、何度もおにいちゃん、おにいちゃんと泣き喚いた。
それは一種のサイレンのように、部屋の中に響き渡る。少女の他、男性も女性も皆沈痛な表情で俯いたり、顔を逸らしたりして誰一人何も口に出さないから、余計に響いて聞こえる。

その光景をじっと眺める、病院服の幼い少年が一人。反対側のベッドの前にぽつんと立っていた。


問一

春。新しく何かを始めるにはもってこいの季節だ。誰も彼もが新しい出来事に期待して胸を躍らせつつ、自分の向かうべき場所に歩みを進める。
それは新高校一年生にも言えたことだ。入学式と新入生歓迎オリエンテーションという長ったらしい行事を終えた少年少女の、教室に向かう足取りは何処か軽い。
学校初日の授業はロングホームルームである。新品の黒い学ランの男子生徒や、赤いタイがついたセーラー服の女子生徒たちががやがやとはしゃぎつつ、自分の席に着いた。やがて担任の教師がやってきて、自分の自己紹介をすると、今度は生徒達に自己紹介をするように促した。それを受けて廊下側の席から一人ずつ席を立ち、出身中学校と名前を言って座っていく。
高い位置で髪を一つ縛りにした、利発そうな少女も例外なく席を立つ。
「花野中学から来ました、春野(はるの)陽(ひ)菜(な)です。よろしくお願いします」
人に好かれそうな微笑みを添え、立ったまま教壇に向かって深く頭を下げる。すると、パチパチとまばらな拍手が彼女に送られた。陽菜はそれに何を思うでもなく、姿勢正しく着席する。ふと、列の一番前に座るショートボブの女子と目が合った。小学校からの親友、夏目(なつめ)菊(きく)である。陽菜が軽く手を振ると、菊もニコッと笑って手を振り返した。
「はい。じゃあ次」
担任の教師が教卓の前に立ち、名簿を眺めながら続きを促した。だが、何の反応もなく、教室はシーンと静まり返った。
「ん? おい、次」
教師が訝しげに、陽菜の背後に目をやった。それにつられて、陽菜もろとも生徒の大半が、陽菜の背後の席を見る。
 最初に艶のある、さらりと流れるような黒髪が目についた。きっと女子に羨まれそうな髪の持ち主は、男子生徒のようだ。その男子生徒は片手を前に投げ出し、もう片方は組んで枕にして、机に突っ伏していた。その男子から、すうすうと、小さな寝息が陽菜にははっきりと聞こえる。
まさか寝てる? 学校初日なのに?
 陽菜と全く同じことを考えた生徒たちが小さくざわめき始める。それでも男子生徒は起きる気配がない。
 すると、ずっと黙っていた教師が名簿を思い切り閉じた。パン! と厚紙同士がぶつかり合う音が響き、陽菜はぎょっとして教師を見る。眉間にしわを寄せ、明らかに苛立っているその教師は、ズンズンと大股で男子生徒の席に近づいていく。
 あーあ、ご愁傷さま。
 クラス全体がそう思った。
教師は名簿の角を、男子生徒のつむじめがけて叩いた。叩いた、というより手首を軽く捻り、あとは重力に任せて垂直に落としたのだが。
「い……」
 ぴくっと肩が少し跳ね、男子生徒が小さく呻いた。もそっと緩慢な動きで男子生徒は上半身を起こす。
 男子生徒は恐ろしいほど顔のパーツ一つ一つが整っていた。それから陶器のように肌が白くて、まさに美少年、といった言葉が似合いそうだ。男子生徒の顔を見た女子生徒が、一斉に息を呑む。
しかし、教師にはそんなこと関係ない。
「今は何の時間だ」
 教師の威圧するような低い声に、陽菜はひゃっと首を竦め、目線だけ背後に送る。陽菜だけでなく、大人しそうな生徒はほとんど同じような格好をしていた。
「あ……すいません」
 しかし男子生徒は何とも思わないのか、寝起きのぼんやりとした口調で教師に謝る。まだ眠いのかその瞼は何処か重そうだ。それに話すテンポが遅く、それがさらに教師を苛立たせた。
「今は何の時間だって聞いているんだ!」
 びりびりと痺れるような怒鳴り声が、男子生徒を発信地に教室に響き渡る。クラスの大半が気の毒そうな顔をして、男子生徒と教師を見やった。
 だが、その男子はというと、首をちょっと傾げて、
「えっと……ホームルーム……?」
 怒られている、という事がまるでわかっていない顔で答えた。
これだけ怒られてるのに、なんで動じないでいられるんだろう、この人。
 そう思ったのは陽菜だけではないはずだ。
「今は自己紹介の最中だぞ!」
 ついに教師が、名簿で机をバンバン叩きながら、額に青筋を立て怒鳴った。歯をむき出しにしたせいで、鋭い犬歯が見える。
 だが男子生徒は一切表情を変えず、一言「ああ」と呟くと、がたっと椅子を引いて立ち上がる。これには教師も虚を突かれたようで、一歩下がり目を白黒させる。
 しゃんと背筋を伸ばす男子生徒に、陽菜を含めたクラス全員の視線が集まる。男子生徒はそんなの構いもせず、誰もいない黒板を真っ直ぐ見据え、スッと息を吸った。
「半田、黒(くろ)……理永中学出身……よろしく」
 テンポは遅いが、凛とした聞きやすい声が教室にしみわたっていく。水を打ったように静まり返った教室で、男子生徒はまるで何もなかったような顔をして、席に座った。
 そして、糸が切れたようにまた机に突っ伏したかと思ったら、次の瞬間には寝息が聞こえてきた。
「は、半田あああああああああ!!」
 教師の怒鳴り声が、教室を飛び越え、廊下にまで響き渡った。
 どっ、と教室が笑い声で沸き立つ。これには誰も堪えられなかったようだ。男子生徒はまた教師に叩き起こされ、更にガミガミ怒られている。
「半田……黒……」
そんな中陽菜だけは一人後ろを振り返り、男子生徒の名を小さく復唱する。
そして、ギリっと奥歯を噛みしめ、あくびを隠さない男子生徒を睨み付けた。
半田黒、私はあなたを認めない。
  


「いやあ、さっきはびっくりしたね、半田君だっけ。すごく肝が据わってて」
放課後。といってもただ午前中に全て行事が終わっただけなので、まだ時刻は昼だ。教室には教卓の前で机を二つくっつけ、弁当を広げる陽菜と菊の姿と、教室後方に、ケータイをいじる男女がちらほらいるだけだ。
本当はもう帰っていいのだが、電車の都合上まだ帰れないので、陽菜は学校で昼食を摂り、少し時間つぶしをすることにした。菊はそれに付き合ってくれている。
「どうしたの?」
 ふと、両手でコンビニのおにぎりを持った菊が、不思議そうな顔をして陽菜を見つめる。菊が半田の話題ばかり口にするので、きっとつまらなそうな顔をしていたのだ。陽菜はさっと取り繕って、「なんでもない」と、弁当箱に住むたこさんウインナーに箸を伸ばし、口へ運ぶ。
「そういえば、部活って何か入る?」
 菊が話題を変えた。ウインナーを飲み込んで、陽菜が答える。
「私はやっぱり陸上部かな……走るの好きだし」
「そっか、そういえば陽菜ちゃん中学でエースだったもんね」
「菊は?」
 話を広げようと菊に質問を返して、卵焼きを口に入れた。ふんわりとした卵が程よく甘塩っぱくておいしい。
 菊は鮭が顔を出したコンビニのおにぎりをいったん口から離し、目線を空中にうーんと唸る。
「私はいま二つ候補があって悩んでるの。美術部か卓球部か」
「なんで卓球部?」
 陽菜が小首をかしげ、お茶が入っている水筒に手を伸ばす。確か菊はあんまり運動が得意じゃなかったはずだし、中学校では美術部だった。そんな菊が卓球部で迷うなど、珍しい、の一言に尽きる。
 菊は少し顔を赤くして、「へへ」と照れたように笑う。
「実はね、気になる先輩が卓球部にいて……」
なるほど、そう言う事か。
 陽菜は水筒のコップを口に運んだまま、じっと菊を見る。はにかむ菊の顔はキラキラ輝いていてキレイだ。恋する女の子、とはこんなに可愛いものなのか。
「ごちそうさま」
 一息ついた陽菜は、空になった弁当箱に蓋をする。それを見て、菊は慌てておにぎりを口に押し込んだ。菊はそのままごみを丸めて席を立つ。
「この後どうするの? まだ時間あるんでしょ」
 菊が教室後方にある、窓際の掃除用具入れの隣に立つゴミ箱に向かい、振り返らずに尋ねた。
「うーんそうだな……ちょっと陸上部覗いてみようかな、オリエンテーションで放課後部活やってるって言ってたし……」
 ごみを捨てた菊が振り返り、ぱあっと嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、ついでに私の方も付き合ってよ、ね」
「付き合うって…卓球部?」
「そう、一人じゃ恥ずかしいから。あ、チラッと見るだけだから、そんなに時間はかけないし、お願い!」
 菊が手を合わせ、拝むようにして頭を下げた。陽菜は一切卓球部に興味はないが、菊には何度か暇つぶしに付き合ってもらっている。
 陽菜はわざとらしくため息を吐き、そしてニカッと笑った。
「しょうがないなあ、付き合ってあげる。菊の気になる先輩も見てみたいしね」
 そう言ったとたん、菊は顔を真っ赤にして、「そんなんじゃないよ!」と陽菜に抗議した。
 二人はくっつけていた机を元に戻し、共にカバンを持って教室を出ていく。廊下に出てふと、数メートル先に一組の男女が、窓のある壁にもたれかかって何か会話をしているのを見つけた。
 そのうちの男子は半田だ。隣にいるのは、入学式のとき生徒代表のあいさつをしていた女子生徒だった。赤茶色の長い髪、小さな、それでいて凛と引き締まった顔をした、クール美人。陽菜のクラスの男子が何人か色めき立っていた。美少年と女子生徒の間で囁かれている半田が並ぶと、お似合いのカップルに見える。
 陽菜はその姿を目で捕らえただけで、自分でもわかるくらいに顔をしかめた。
「陽菜ちゃん、どうしたの? 先行くよ」
 ハッと我に返って視線を二人から外し、その先に移す。いつの間にか、菊が随分先を歩いていた。
「あ、ごめん!」
 陽菜はすぐに笑みを取り繕って、駆け足で菊の元に近づいた。そのまま歩幅を合わせて二人は階段に歩いていく。
「さっきの人、結城(ゆうき)めいさんだよね。すごい、成績ツートップの二人だ」
 少し興奮したように菊が言う。
「ふうん、そうなんだ。お似合いだったね」
 それに比べて陽菜は冷たくあしらった。実際興味がないのだ。
「だねぇ……そういえば、本当は入学式のあいさつ、半田君だったんだって」
「そうなの?」
 陽菜が怪訝そうに聞き返した。普通、新入生代表のあいさつは、成績一位の生徒が代表に選ばれると知っていたのだ。菊もそれを知っていて、前を見ながら頷く。
「うん。半田君は体が弱いらしくて、入学式と病院の検査の日が被っちゃって入学式に出られないから、急遽二位の結城さんが選ばれたんだって」
「ふうん」
陽菜は興味なさそうな顔で適当に相槌を打つ。しかしその胸の中では悔しいような憎いような、禍々しい気持ちが渦巻いていた。
なんであんな奴が一位なんだ。
知らずのうちに奥歯を噛みしめていた。
「ねぇ、もしかして陽菜ちゃん、半田君、苦手なの?」
菊が声を潜めて尋ねてきた。陽菜は内心ドキッとした。
「え、なんで」
 動揺を隠して菊に問い返したつもりだが、若干ぎこちない。
「だって、半田君の話をするとき、なんか