追われる少女と追いかける男性

夜の荒野は陰獣達の活動を活発化させ、彷徨う人間達を襲うことから決して近づいてはいけない。それが、アーガル村での掟だった。

 赤い月が満月に変わる夜、キルカは草木の生い茂る荒野を全速力で走っていた。息苦しく、酸素を貪るように荒い呼吸を繰り返しながらも、その足を緩めることは許されない。
 走り続けて数十分は経つだろうが、背中に張り付く殺意はべったりと張り付いたままだ。
「待テッ! ニンゲン」
 後ろから聞こえてくる男性の声。距離からして二十メートル程だろうか? 
 視線を動かすと、そこには二メートルはあろう大男が大地を揺らしながらもキルカとの距離を詰めていた。
 体力も、その足の速さも尋常ではない大男にキルカはため息をつきながら呟いた。
「この陰獣、なかなかしぶといわね……」
 心の声がそのまま口に出てしまう自分の癖を今は後悔した。今は少しでも喋るのを我慢して息を整えなければならないのに……。
 本来ならばあの程度の陰獣は『陰獣狩り』と呼ばれる陰獣を駆除する人間、キルカの敵ではない。だが、それは陰獣を殺す為の宝具があってこそ言えることだ。
 今のキルカは常人よりも力が強いだけの普通の少女だ。
「ニンゲンッ! 喰ワセロ!」
 片言のように喋る男の腕が肥大化し、金槌のように地面へと叩きつけられた。
 バガァンッ! という音と共に地面へと亀裂が入り、地響きが起こる。
「きゃっ!」
揺れる地面へと足を取られたキルカはそのまま地面へと倒れ込んでしまった。
仰向けに倒れたキルカの視界に入るのは満月に照らされた大男の姿。
大男は満月を背に、大きく跳躍する。
すると、彼の瞳が月と同じくらいの赤い眼孔へと変化し、肉食獣の鋭い牙が十本近く生えそろう。全身を灰色の毛並みが覆い尽くす「それ」はまさに狼男そのものだった。
跳躍した陰獣は咆哮を上げながらキルカへと襲いかかろうとする。
「もしかしてこれって……」
 キルカが体勢を立て直すよりも陰獣の攻撃が当たる方が早い。まさに絶体絶命のピンチというやつだ。
 ――瞬間、陰獣の咆哮が呻き声へと変化した。
 視界には月の他にもう一つ、青白い光線の輝きが陰獣の額へと風穴を開けていたのだ。
 陰獣はキルカを襲うことなく墜落し、そのまま動く事はなかった。
「大丈夫か、キルカ」
 その声には聞き覚えがあった。村ではキルカと同じ陰獣狩りの仲間であり、俗に言う幼馴染みのレン・ガレッド。
 倒れる陰獣の奧から歩いてくる少年は陰獣狩りの証である青いローブを身に纏い、片手には陰獣を撃ち抜いた拳銃の形をした宝具が握られていた。
 レンはキルカを見るなり深いため息をつきながら口を開いた。
「まったく、宝具も持たないで荒野に入るだなんて……自殺志願者そのものの行動だって思わないのか?」
「ほ、宝具ぐらい持ってたわよっ!」
 キルカは呆れるレンを睨みつけながら叫んだ。
「何故に過去形なんだ? じゃあ、宝具は――」
「その……、森で落としちゃって」
「は?」
 目を点にしながらキルカのことを見るレン。数秒ほどして徐々にキルカの言葉を理解し始めたのか、その顔に血が上っていく。
「ちょっ、おまっ、本気で言ってんのかっ!?」
「嘘なら陰獣から何て逃げたりしないわよ!」
 キルカは宝具を森に落としたことを自信ありげに言うと、レンの顔色は蒼白へと変わった。それから少しして、二度目のため息をつきながら呟く。
「……明日の早朝五時にアーガルの門前に来い。宝具を無くしたとなったら同じ村の俺まで火の粉が降りかかりそうだしな」
 ちょっとした罪悪感に苛まれるが、それ以上にレンがキルカの事を助けてくれるという事実が心の底を熱く滲ませた。