過去と今を繋ぐ光の橋

雨が窓に打ち付けられバチバチと音を立てていた。平和な午後の教室で、先生が現国の教科書を音読させていた。
窓際の席に座る少年は雨音に耳を傾け、ノートの端に落書きをしていた。
「今日の空は雨、橙也、放課後の約束忘れてないよね?」
 誰に当てたメッセージというわけではない。独り言に近いもの、言うなれば独り書き。答えるのはもちろん自分しかいない。
「当たり前だろ凍也、あいつに会いにいくんだろ?」
 傍から見れば少し妙な光景かも知れない。だが、少年にとってはこれが当たり前だった。解離性二重人格と呼ばれるもので、一つの体に記憶の共有できない二人が存在していた。
 一人は凍也という人格で、日常を過ごすときに出てくる人格。
一人は橙也という人格で、運動の際や非常時に出てくる人格。
少年は二つの人格で成り立っていた。気が付くと授業の終了を告げるチャイムが鳴り、放課後に入る前のホームルームが始まろうとしていた。凍也はノートを閉じ雨音に耳を傾けていた。
「以上で連絡終わり、鏑木、あとで保健室に行ってこい」
「はい」
 鏑木と呼ばれた少年は頷いて返事をした。

先程までの天気が嘘のように外は晴れ、空には虹が見えていた。鏑木は保健室前の廊下からそれを眺めていた。
灰色に見える虹に手を伸ばした鏑木は、左手で頭を押さえ伸ばした手で胸を押さえた。
心因性色覚障害。過去のトラウマから鏑木は世界が灰色に見えていた。
「あの時から何も変わっていない」
どうすることもできない過去を思い出してしまう。それに伴って呼吸が浅くなり心臓の鼓動が速くなる。ようやく落ち着いたところで、保健室に向き直る。

「失礼します」
保健室には女性養護教諭の谷村先生がいた。身長は高く胸囲もなかなかなサイズで股下も長い。モデルに向いた体型だと思う。
「二人共お疲れ、調子はどう?」
「僕はとくに変わりありません」
 凍也は椅子に座りながら返答をする。制服の胸ポケットからメモ帳を取り出し、サラサラと書き込んでいく。近くにある机の上にメモ帳を置くと、一瞬糸の切れた人形のように腕がだらりとなる。その後机の上あったメモ帳の中身をチェックし、谷村教諭に向き直る。
「俺もとくに問題ないですよ」
「そう? ならよかった」
谷村教諭は手元にあるバインダーから、一枚の用紙を取り出し異常なしと書き込んでいく。手首にはめた腕時計に目を落とし、橙也に向かってニコリと微笑んだ。
「そろそろ病院に向かいましょうか」
「了解です、それじゃカバンとってきます」
立ち上がる橙也に谷村教諭の呼び止めがかかる。
「待って、昇降口に集合よ。あとで凍也くんにも伝えてね。」
橙也は頷き保健室を後にした。谷村教諭は小さくため息をつき伸びをした。
「あれから1年か…時が過ぎるのは早いわね」
鏑木が彼らになった日彼女はその現場にいた。罪滅ぼしか自分なりのけじめか、鏑木のアフターケアを担当していた。
椅子にもたれかかり一人静寂とした部屋にいると、どうにもならない過去のことばかりを思い出していた。腕時計に目移すと鏑木と別れてから十分以上経っていた。急いで荷物をトートバックに詰め込み、駐車場へ向かった。

 学校から十分程のところにある市立病院は、鳳凰のようなエンブレムが目印で、定期検診や病状の確認のためにたくさんの人が来ていた。止んだように思えた雨はまた降り出していた。
病院の中は消毒液の独特な匂いが鼻についた。エントランスで受付を済ませた鏑木と谷村は、目的の病室にいた。病室の中には一人の少女がいた。雪のように白い肌に整った顔立ち、すぅすぅと寝息を立てる姿はまるで、童話の眠り姫のようだった。
「面会時間の終わりまで、四時間くらいだけど最後まで居る?」
「はい」
「わかったわ、また来る」
ガラッと病室の扉を開け谷村は病室を後にした。鏑木はベッドの近くにある椅子に座り、眠る少女の手を握り締める。
「遥、あれからもう一年だよ、そろそろ起きてもいい頃じゃないかな」
鏑木は少女に話しかける。今の少女にはおそらく聞こえてはいないだろう。それは鏑木もわかっていた。だが、それ以外にできることはなかった。力が抜け少女の手が離れそうになる。すんでのところで捕まえた鏑木はもう一度少女に声をかける。
「早く起きてくれ遥、でないと俺そろそろ泣いちまう」
 少女の小さな手を強く握り締める。どれほど強く握っても一瞬だけは離れそうになる。二人の人格が変わる瞬間、彼女の手は滑り落ちそうになる。その度にもうひとつの人格がギリギリのところで握り直す。
「僕だけが心配なわけじゃないんだ。君の家族や谷村先生、それに橙也だって」
 震え始めた声に合わせるように視界が滲んでいく。意思があってもこの感覚には逆らうことができず、彼女の手を離しそうになる。そうしてその度に過去の情景がよぎり強く少女の手を握り直す。
「眠いなら眠っていいからさ、だけど今はほんの少しだけでもいい…目を覚ましてくれよ!」
 声を抑えられるほどの余裕が無くなっていた。鏑木は気づかずただ涙をぼろぼろとこぼしていた。涙でボロボロになった顔は学校での見る影はないほど、グシャグシャに濡れていた。
「俺たちには、お前が必要なんだよ…!」
 もう言葉は出なかった。病室の中は少女の寝息と鏑木の嗚咽混じりのすすり泣く声が響いていた。

「今日って君の誕生日でしょ? なにか欲しいものない?」
鳳凰のエンブレムが目印の市立病院の一室には少女の明るい声が響いていた。少年は気恥ずかしそうに頬を赤く染め、まごまごしていた。少女がむぅと頬を膨らませ少年の正面に回る。
「人に質問されたら答えなきゃ、で欲しいものはある?」
 少年は少女を直視できないというような表情をし、俯いた。少し立ち少年は口を開いた。
「笑わない?」
「人の欲しいものを笑う理由なんてないよ」
「…虹が見たい」
「わかった、任せて」
 そう言うと少女は、太陽のように明るい笑顔を向けてどこかへ走り出していた。
 少年は後を追ったが、脚力の差が出てすぐに見失ってしまった。こんな時の少女は無茶ばかりしていた。以前からそうだった。
友達が川に流してしまった帽子を探して、上流から下流まで泳いで探したり、友達が上級生に絡まれた時も助太刀に入ったり。少年の頭には嫌な予感が付きまとっていた。

「谷村先生! 遥が!」
 少年はいつもお世話になっている先生を探して、病院内を走り回っていた。
ようやく見つけた先生は仮眠から目を覚ましたばかりで、まぶたをこすっていた。
「遥ちゃんがどうしたの?」
「僕が虹を見たいって言ったら、遥が走り出して…きっとまた無茶しちゃう。先生助けて!」
 早口で状況を伝えた少年は、先生の着ていた白衣を引っ張る。
「わかったから引っ張らないで、これ結構高いんだからぁ」
 少年は少女を捜すため駆け出していた。遅れて先生もあくびをしながら仮眠室を後にした。

 病院の屋上に少女の姿はあった。傍らには庭にあったであろう散水ホースがあった。
 少女はそのホースを蛇口につなぎ、設置されていた柵を乗り越えた。
「遥! 戻ってきて! そっちは危ないよ!」
「大丈夫だよ! 待ってて! 虹を見せてあげるから!」
 そう言うと少女はホースから水を放つ。ホースは老朽化しているのか、水漏れを起こし少女の足元に水たまりを作っていた。
「綺麗でしょ?」
「言ってる場合じゃないよ! 早くこっちに来て!」
 少年は少女に駆け寄る。少女はしぶしぶといった様子で柵に近づく。だが、水たまりに足を取られ少女は空に投げ出された。
「遥ぁ!」
 少年は少女に向かって手を伸ばした。どうしても届かない。やがて視界から少女は消えた。上から少女の落ちた場所を見ると、真っ赤な花が咲いていた。そのそばでは先生が必死に叫び声を上げて助けを求めていた。
 現実を理解できない。その時自分の中で何かが割れるような感覚がし、意識を失った。

何かが頭を撫でるような感覚がし、鏑木は目を覚ました。
「病人のお腹に顔を乗せて寝るなんて、君は本当に何を考えているのかな?」
 耳に聞こえるのは聞き覚えのある懐かしい声、ハッと顔を上げると、あの日から変わらない少女が微笑んでいた。
「遥? 遥!?」
 鏑木は遥を強く抱きしめていた。あの日届かなかった手が今は届いている。もう二度と会えない、そんな考えさえあった。
感情は溢れ涙となって表面化した。
「僕のこと、わかる?」
「当たり前でしょ、おはよう統也」
遥はふっと笑い鏑木に体を預け、鼓動に耳を傾けていた。
鏑木は遥からそっと手を放し、二人は視線を窓へ移した。
 空は暗い世界を映し出していた。その中には七色の橋が架かっていた。