聖女と騎士の逃避行


 背後から絶え間なく聞こえる草を踏み分ける音に、ナヅハはとうとう耐えられなくなって、憤慨した。
「いい加減、放っておいてよ!」
「いいえ、お嬢様のお傍を離れないのが俺の仕事ですので」
「この頑固者従者!」
「なんとでもお好きに仰ってください」
 ミツキはあくまで淡々と答えた。空気を殴るような手応えのなさを覚えて、ナヅハは彼をさらに睨みあげる。
 深い森には居心地の悪い空気が流れていた。平生であれば、木漏れ日のシャワーに濡れているその道を歩くのは、屋敷の中に閉じ込められていたナヅハにとって夢のような光景であった。そんな貴重な趣味の時間に、どうしてこんなにもいら立たなければならないのか。
眼前にあるミツキの顔は常に無表情であり、それが感情を覆い隠す仮面となっている。ナヅハは、彼のこういう人間味を感じさせない一面に大変な苦手意識を持っていた。
わざとらしく盛大に溜息をついたナヅハは、ミツキから視線を外す。もう一度ナヅハが踏み出した第一歩は荒々しく野草を踏みつけ、無残に折り曲げた。
――折角屋敷を抜け出したのに、よりにもよって彼に見つかるとは。
 ナヅハの眉間に深く皺が寄る。ロープを使って衝動的に窓から飛び降りるという計画の甘さ、周囲の確認を怠った不用心さ。どちらも自分の責任ではあるが、その二つを取り上げて反省する前に、ミツキへの怒りが込み上げてくるのだ。結果、ナヅハは仕事を熟しているだけのミツキに多大な苛立ちを募らせているのである。
「お屋敷に戻らなくて良いのですか?」
「嫌。どうせまた祝福の詩でも詠まされるんでしょ」
「恐らくは」
「あれがどれだけ苦痛か、お前には分からないのよ」
「祝福の詩を詠めるのはお嬢様だけですので。一介の使用人風情が理解できないような、並々ならぬご苦労があるかと存じます」
「ええそうよ、苦痛よ。あんな長ったらしいだけの誰が詠んだかもわからない詩! 毎日同じ文章を一日中読み上げて、誰とも知らない人に拝まれて。冷静に考えて、知らない人の幸せなんて詠んでも楽しいわけないでしょ!」
 森に反響するナノハの叫び声に反応して、近くの木々にとまっていた鳥達がバサバサと激しく羽搏いて飛び立った。それに申し訳なさを覚えるほど、今のナヅハは穏やかな気分ではない。今手元に投げられるものがあれば、理不尽なことを理解した上でミツキにそれを投げつけていただろう。森という大自然の背景には似つかわしくないフリルたっぷりのドレスの裾が、ナヅハの身動きに応じて大げさに揺れる。今はそれさえ煩わしかった。
 祝福の詩とは、聖女が詠みあげるとそれを聞いた人物に幸福を齎すとされている詩である。
 聖女の血を引く家に生まれたナヅハもまた、聖女なのである。ナヅハの元には祝福の詩を求める人間がわんさかやって来て、その度に同じ詩を繰り返すのだ。屋敷は名声や地位、或いは権力を見せつけるために、私室にナヅハを閉じ込めた上で強引に祝福の詩を歌わせていた。
 そんな状態で他者の幸せを祈れるだろうか? 少なからず、ナヅハには無理だった。
「聖女だから人間に優しく? 聖女だから不満を持たずに他人の幸せ祈ってろって? 聖女って何よ。昔にそう呼ばれた人の血をちょっと受け継いでるだけで、根本は皆とそう変わらないんだから!」
 犬の遠吠えのように、ナツバが貯めこんでいた不満を大きく爆発する。屋敷であれば決して許されなかったであろう発言も、森の中では誰の目を気にすることなく零すことができた。
 ナヅハの怒気を孕んだ声を、ミツキは静かに聞いている。
 聖女業に対する不満を口にすることは、彼への皮肉でもあった。彼は『聖女の』ナヅハを守護する騎士なのである。その肝心の聖女がここまで同行を嫌がり、さらに仕事に対する不満をたらたらと流すのだから、彼としても思うところはあるだろう。ミツキへの苦手意識は、単純に、彼の傍にいると聖女としての自分でいなければという意思が働くからでもある。せめてもう少し自由が許されていたら、ミツキのことを嫌うことはなかったかもしれない。
 何より聖女に相応しくないことを言ってしまった今、彼もまたナヅハのことを軽蔑するだろう。聖女とは無条件に他者を慈しまねばならない。そういう役割を担うものなのだから。
「とにかく、私はお屋敷には戻りません! 帰って!」
「帰りません」
「か・え・れ!」
「女性としてその荒々しい語調は如何かと」
「男性としてしつこい行動は如何かと! 人呼ぶわよ!」
「お好きにどうぞ。ここには誰もいませんし、この場合、捕まるのはお嬢様でしょうね。今頃屋敷の方でも捜索が始まっている頃合いです。お嬢様を見つけた者には山ほど報酬が出るでしょうから、俺なんか見向きもされないと思いま
 ずばりと言い切るミツキに、ナヅハはとうとう口を閉ざした。その通りだったので、それ以上反論の言葉が出せなかったのである。
 聖女というのはそれだけ世間に必要とされる存在だ。ナヅハではない、聖女が必要なのだ。
 人々の欲求を満たすために、ただあの家に生まれたというだけで、ナヅハの自由は制限される。年頃の娘が皆楽しく街を歩く中、ナヅハは誰とも知らぬ人間のために何とも分からない詩を永遠と口ずさむ。
 本当に聖女の詩が祝福を齎すなら、ナヅハが一番幸せになれるはずだった。――幸せだったことなど一度もない。
 ナヅハはついに目元に涙をためて、俯いた。
「――ですから、ここで、提案が御座います」
「……なに?」
「お嫌なら、逃げてしまえばいいと思います」
 ミツキがぽつりと零した言葉に、ナヅハが目を見開く。彼はただ無感情に見える表情を保っていたが、その瞳には強かな光が鎮座していた。
「聖女だろうと、どこぞのただの一般人だろうと、俺の仕事は貴女の傍に仕え、貴女をお守りする騎士ですから。お嬢様の身の安全は勿論、退屈からも鬱憤からも守って差し上げます」
 どうでしょう、と何でもないことのように提案された言葉と共に、白手袋に包まれた手が差し出される。突然の申し出に呆気に取られていると、ミツキはぎこちなく微笑みを浮かべて、頷いた。
「逃げましょう、お嬢様。何処までも、共に」
「……職務放棄……」
「俺の仕事は貴女の傍にいることですから」
 やっとのことで出てきたナヅハの一言に、ミツキは冷静に繰り返す。恐る恐る手をとると、手袋越しの体温が穏やかにナヅハを迎えた。
 遠くからナヅハの名を呼ぶ町民の声が聞こえる。それに弾かれたように駆けだしたミツキにつれられて、ナヅハは初めて、自分に訪れた幸福の存在を知った。
 聖女ごと盗みだされた祝福は、生涯、唯一人のために歌われたという。
 その真実を知る者は誰もいない。けれどもこれは悲劇ではない。
 ただのどこにでもいるはずだった少女が救われただけの、在り来たりでつまらない幸福な物語なのである。