栄水寺の住職様


 海の街で人々の心の拠り所となっている『栄(えい)水寺(すいじ)』。派手な装飾は少ないが大きく立派な栄水寺には、優しく穏やかな住職と、六人の雲水がいる。
 ある朝。玄関の掃除をしている雲水の明慶(みょうけい)に、緋色の袈裟を両肩に掛けた住職が声をかけた。
「明慶さん、私は周辺の見回りをしてくるので、他の五人にもそう伝えておいてください」
 明慶は箒を動かしていた手を止めて住職に振り返り、作務衣を整える。
「承知しました。お気をつけて」
 住職は明慶の言葉を聞き、栄水寺から出て近くの海へ向かった。
 住職が海沿いまで見回りに行こうと歩いていると、浜辺に人だかりを見つけた。
何かを取り囲むようにして話している人達に近づいた住職は、いつもの穏やかな調子であいさつをした。すると、それに気づいた人達は取り囲むような形を止めて、中心にいたお婆さんが住職に話し始めた。
「おはようございます、住職様。実はですね、こちらの男性が海から流れて来たんですよ。意識はあるのですが、あまり声が出せないようで……」
「海からですか……。他国の方の可能性が高いですね」
「やはりそうですよね。そうなると、病院では診てもらえないから、皆でどうしようかと相談していたのです」
 住職は周りの人々を見回した後、倒れている男性を見た。男性の服や髪は濡れているものの、人々が相談をしながら水を拭いていたことが分かる。
「では、彼は私が寺に連れて帰ります。栄水寺には水天様がいるので、海から来た彼のことを、きっと守って下さるでしょう。皆さん、もうここを離れて大丈夫ですよ」
「住職様、ありがとうございました。また伺いますね」
 お婆さんの冷静な説明と住職の優しさによって、男性はしばらくの間、栄水寺で暮らすこととなった。


 寺に着いた数時間後。男性は目を覚まして、写経をしている住職に目を向けた。
「あの……」
「ああ、おはようございます。ふふ、もう夕方の四時なんですけどね。体調はどうですか?」
「えっと、大丈夫です。……あの、ここはどこですか? あなたは、誰ですか?」
「ここは栄水寺というお寺です。私はここの住職で、海から流れてきたあなたを発見した住民の皆さんから引き取ったのです」
 男性は両手で頭を押さえて考え込むが、海に入った理由も自分が誰なのかも思い出せなかった。
「記憶はそのうち戻ってきますから、今はここを家だと思って自由に使ってください」
「あ、あの、何も分からないのに、面倒見てくれてありがとうございます」
 そう言って、男性は勢い良く頭を下げた。中々その頭が上がらないと感じた住職は、写経の紙を男性に見せて話題を変えた。
「これ、知っていますか? お経という、この国の古い言葉です。書いてみませんか?」
「は、はい。読めないけど、書いてみたいです」
 男性は住職の隣に座り、教えられた通りに写経を始める。
 この国の文字に苦戦した男性は、普通の人より倍の時間をかけて写経を完成させた。
「難しいけど、静かでこれのことしか考えないのは、面白いですね」
「それは良かった。……今は記憶が戻るのを待って、思い出してからその後のことを考えましょう。私たちは水の仏様の下で修業をしているので、海から来たあなたを見放すことはありません」
 住職の言葉を聞き、それまで不安気だった男性が初めて笑顔を見せた。