全てが、二人を分かつとも

 千九百二十六年のある夏の日。私たちは野を駆けていた。私と、私が好きな女の子。私は、その子と駆けたり、草花を使った遊びで遊んだりすることが大好きだった。いつもそうやって、朝から夕方、日が沈むまで遊び通していた。ある時は泥遊び、ある時は水遊び。その時ごとに遊ぶ内容は異なり、その度に服を汚して怒られたことがほとんどだった。しかし、それでも私のお母さんとお父さんは「その友達と遊ぶな」なんて一回も言わなかった。
もともと、私は別の場所から越してきて、友達と遊ぶどころか、友達ができることなんて夢のまた夢だった。違う場所の人間ということで、物珍しさに話しかけられることはあっても、友達とは程遠かった。むしろ私は、その土地で「よそ者」扱いを受け、いじめられていた。暴力を受けることなんて常の事だった。そんな中で、私を助けてくれたのが、その女の子だった。とても勝ち気で、ガキ大将なんて目じゃないほどの腕っ節の強さだった。悪を許さない、正義の味方のような。私は、情けないと思いながらも、それでもその子のことを好きになった。当時の自分にその気持ちが真の意味で何か、と聞いたとしても、全く理解しないだろうし、理解できないだろう。
そこから、私とその女の子は、よく二人でいるようになり、周りからは茶化されることがほとんどだった。しかし、それでも動じないどころか、力でどうにかするその女の子の姿は、いつ見ても格好良かった。
私たちは、そんな日々を経て、成長する。お互いが異性だと認識できるくらいに成長した私たち。ひまわり畑で追いかけっこをしていた。風と私たちが、一心同体になるほどに。やがて疲れると、二人は昔から遊び場になっている原っぱの中央に寝転がり、お互いの夢を語り合った。彼女が夢を語った後に、私が、彼女を護れるくらいの強い男になる、と。そういうと、彼女はいつも顔を赤らめて、私の事をはたく。しかし、それは決して昔ガキ大将にしていたような、力を全力で行使するような、力任せのものではなかった。私と彼女は、その瞬間に、互いに恋に落ちているのだと認識した。
私たちは、互いに想い人だと知ったその日から、二人で会う回数をさらに重ねた。いつしか、私たちは手をつないだり、恋人同士でするキスをしたりしていた。私たちの関係は、決して崩れることのないところまで、繋がりが強くなっていった。最初許嫁がお互いにいたのだが、双方の父親と母親が願いを取り下げたのだという。私たちはこのまま関係を深めていき、夫婦になるのだと、そう思っていた。
しかし、そんなときに戦争が始まった。日本とアメリカの、太平洋戦争をはじめとする、最悪の日々。
私は、国から兵として徴兵された。それも噂に聞く、乗ったら最後、死ぬことが運命づけられる、零戦の搭乗者として。
私は、「逆らったら非国民として処刑する」という言葉の意味が分からなかった。ずっとずっと、平和というものは続いていくのだと、そう思っていた。父親と母親は何も言わずに、私が兵になることを喜んでいた。最初、私は怒りがこみあげていたが、それもすぐに収まった。二人の目には、涙が浮かんでいたのだった。家のためにも、国のためにも。そう言われ、私は、搭乗者として承諾した。
零戦搭乗前、彼女は、私の体を抱いて離さなかった。そして、これでもかと泣いた。嗚咽に近かった。「私の、将来の夫を見殺しにしたくない」と。そう言われたときに、私の目にも涙が浮かんでいた。彼女のものは、決して短時間で収まるようなものではなかった。それでも、搭乗時間になり、私はどうしても行かなければならなかった。たとえ死ぬ、と分かっていても。彼女まで死ぬ必要はない。私だけで済むならば、それは、必要な犠牲なのだろう。そう考えていても、あふれる涙は、止まってくれなかった。


 戦争が終結し、私は、奇跡的に生還した。零戦本来の「特攻」という役目を果たしたうえで、私は零戦に救われた。衝撃によって、数か所の骨折、打撲こそしていても、命に別状はなかった。そして、一番礼を言いたかったのは、アメリカの兵士たちだった。私たちが目を覚ますと、そこはアメリカ軍の医務室のベッドの上だった。横には、寝ずの看病をしていてくれた一人の衛生兵の姿が。後々話を聞くと、その兵は私の胸ポケットに入っていた、私と彼女の写真を見て看護を決めたのだという。
 日本に帰り、真っ先に出迎えてくれたのは、母親でも、父親でもなかった。いや、厳密には迎えてくれたが、それでもいの一番に迎えてくれたのは、彼女だった。私が壊れそうなくらいに抱きしめる。そして、涙を流し、私に「お帰りなさい」と言ってくれた。その瞬間、私は泣き崩れていた。私たち二人とも、その場で子供のように泣き、互いがそこにいることを喜び合った。
 それから、時が経ち。戦後数年たったころに、私たちは結婚した。夫として、仕事に専念し、それなりの給料を持ち帰る。多くも、少なくもない額ではあったが、それでも妻は喜んでくれた。決して責めることなく、喜んでくれた。それが次の仕事への活力になり、私は見る見るうちに出世していき、いつしか数年後にある会社の重役となっていた。妻は「決して『自分は偉い』ということに胡坐をかかない」ということを言い続けた。
 その結果。私は、自分で会社を立ち上げ、社長になっていた。
 稼いだ分は自分のために使うことはせず、少しの間一人でいさせた妻への食材の意味も兼ね、いろいろなところに旅行していった。妻はどこに行っても喜んでくれて、私も、とてもうれしかった。
 それから。私たちは二人同じタイミングで同じ病気にかかり、早くに逝った。
 それでも、二人の死に際の顔は、ひまわりの様にとても眩しい笑顔だった。